1月3日38 分

10周年を迎えて。京都秘封探訪とはいったい何であったのか

最終更新: 1月11日

 2024年1月1日。同人サークル「京都秘封探訪」は設立から10周年を迎えることができた。

 10年という歳月は長いと言えば長いし、短いと言えば短い。20年選手のサークルだって珍しくはない東方Projectというジャンルにおいて10年という期間は決して長いとは言い切れない。

 ただ趣味と言うのはせいぜい2~3年しか続かないものだ。最初の1年目は何もかもが新鮮で真新しく、楽しさしかなく。2年目は勝手が分かって勢いも出る。だが、3年目ともなると「慣れ」が出て来てしまいマンネリ化。そして4年目には飽きが出て来て、そこからフェードアウトが始まって行く……

 自分は自動車やカメラ、コスプレ撮影、そして同人……。様々な趣味で活動してきたが、3年経って界隈から消えてゆく人を嫌と言うほど見て来たし、これでもかという程に見送って来た。そして自分自身もまた、いつもいつも3年の壁と向き合い続けて来た。

 趣味を10年続けること。これは並大抵のことではないと思う。良い意味でも悪い意味でも、十二分に凄い事だと思う。3年以上趣味を続けるには『楽しさ』以外にも、何らかの『理由』が必要だと思っている。その『理由』が明確かつ簡潔な言葉で顕せるものなのか、それは人それぞれだろう。それが一体何であったのか。京都秘封探訪とは一体何であったのか。10周年を節目に、自分自身の活動を振り返ってみたいと思う。

 ……もともと自分語りのようなことは好きではない。すべきではないとも思っている。事実、この10年、自分は可能な限り『京都秘封探訪』の中にいる『個人』の存在を可能な限り出さないように努めて来た。だが、10周年なのだ。それぐらいは許されてもいいだろう。

~京都秘封探訪とは~

 まず、京都秘封探訪とは小説サークルである。2014年1月1日に『慧』という個人ひとりによって立ち上げられた。その活動目的は秘封倶楽部というジャンルの同人小説を書くことである。

 京都秘封探訪というと「京都の写真と蘊蓄をTwitterに載せているアカウント」「ペンタックスの回し者」等々のイメージを持っている人が少なからずいるが、そうではない。原点と主軸は、あくまでも小説を書くことなのだ。

 もともと京都秘封探訪という名称は、自分が2013年1月に立ち上げたブログのタイトルであった。サークルの名前にするつもりはなかった。ライブドアブログで立ち上げたそのブログは更新しなくなって久しいが、今でも何故か多くのアクセスを頂いている(蓬莱人形と秘封倶楽部の年代考察が二大人気記事である。)

 ……もともとこのブログは、秘封倶楽部の小説を書く為のネタ集めや情報整理として始めたものだった。後に同人誌を製作して、同人誌即売会に参加する際にサークル名が必要……ということで、ブログのタイトルをそのまま流用して「京都秘封探訪」というサークル名にした。その程度の由来に過ぎない。

 このブログは、東方Projectや秘封倶楽部の考察・元ネタ・聖地巡礼などを行い、それを写真と文章でまとめてゆくというスタイルを取っていた。自分のメモ帳程度に考えていたのだが、思っていた以上に色々な方が見てくれていた。

 2014年8月にTwitterを開設したのだが、みるみる内にフォローしてくれる方が増えていった。この頃、まだ「慧」という個人名は考えていなかったのだが「秘封探訪のことを何と呼べばいいか」と問われることが多く、とりあえずの便宜上として「慧(けい)」という名前を自分に与えた。ただ、今でもそれ程には積極的に「慧」の名を使ってはいないので、今でも自分の事を何と呼べばいいのか分からないという人は少なくない。でも、それでいいと思っている。

 元よりサークルを作る際、自分は自分と言う「個人」をあまり表に出さないように心がけて来た。Twitterを開設する時に決めていたことがある。「草(いわゆる『w』)を絶対に使わない」「絵文字も使わない」「ツィートする時は敬語体を崩さない」「必要以上に人と関わらない」……等々。今もその多くは、かなりの域で護り続けている。だからこそ大きな炎上やトラブルもなく、Twitterを運営し続けて来れたのだと思っている。

 ……もちろん。それが自分の「枷」となり「重し」になってしまった面もある。もっともっと自分の中にある「個人」を出して。いや、個人そのものとしてTwitterを運営すれば、もっともっと自由に発言ができて、もっともっと多くの人と広く深く親交を結べたであろう。だが、自分は敢えてそれを捨てた。最初から選択しなかった。やはり名前とは大切なものなのだ。

 自分がこういったスタイルでサークル活動を行うことを決定したのは、様々な経緯がある。それを知る為には、さらに年代を遡る必要がある。

~小説を書き始めて~

 自分が小説を書き始めたのは20年以上前。2003年の夏のことだ。当時の自分は「新世紀エヴァンゲリオン」(の旧劇場版)を観て、何故か創作活動を志すことになり。ライトノベルの「ブギーポップ」シリーズを読んで小説の道を志した。まあ、あの時代のオタクにはありがちなルートである。当時を知る同人作家の方々が聞けば、首がもげる程、頭を縦に振ってくれることだろう。

 あの頃の自分は身の程も知らずに「小説家になりたい!」などと本気で考えていた。自由に使えるパソコンがなかったので、家の片隅に転がっていたワープロを使ってオリジナルの小説を書いた。タイトルも覚えている「朱の刻印」だ。江戸時代を舞台とした少年剣士と抜け忍少女の敵討ちの物語だ。ああ、元ネタは「るろうに剣心」の京都編、剣心と操が京都へ向かって旅するあれである。

 毎日毎晩、徹夜をして1ヶ月で小説を書き上げた。だいたい250ページぐらいだったと思う。Windowsも普及しきっていたあの時代に、インクリボンを大量に使って印刷して、電撃大賞に応募した。もちろん一次選考すら通らなかった。

 落選という言葉すら自分には贅沢であったが、失意の中で(めっちゃめちゃ落ち込んだ……)次作を書き始めた。次は都市伝説をテーマとた、少年と天使の少女の物語だった。タイトルは「REFLEXION A trivial disobedience of outcasts」だったか。

 元ネタは「D→A:BLACK」「D→A:WHITE」というゲーム。分かる人、いるのか……? Tiarawayのテーマソングがめちゃめちゃ良いのだが(サークル・Ridilのニシムさんは分かってくれた)

 ゼロから話を考えて、今度は4日で300ページを書き上げた。総計1週間。自分でも恐ろしいハイペースだ。今思えばおかしい。ああ、もちろんこちらも一次選考すら通らなかった訳だが。

 また、めちゃめちゃ落ち込んだ(落ちたのは当然でしかないのだが……)。それと同時に、ふと頭をよぎったことがあった。

「自分は本当に小説家になりたいのか?」

「ただ自分は商業小説家というステイタスが欲しいだけなのではないか?」

「本当に、純粋に小説が書きたいのならば、同人誌でいいのではないか?」

「お前は、それでも小説が書けるのか?」

 ……そして自分は小説を書くのをやめた。ただ、文章は書き続けた。当時はmixiをはじめとしたブログ形式のSNSがまだまだ旺盛であった。ブログをフィールドとして、自分は様々な趣味の文章を書き始めた。数日に一度6000字程度のブログを書く。一時期は3つか4つの異なるブログをジャンル別に並行運用していただろう。それを何年も何年も続けた。その中には「いつかまた小説が書きたくなる日が来るかもしれない。これはその訓練でもある」という気持ちもあった。

 これがけっこう成功した(別に今でいうバズとかがあった訳ではないが)。多くの趣味仲間たちを得ることに成功し、当時を知る人達とは今も仲良くさせて頂いている。ゆーさくさんやちゅるやさんがそうだ。ああ、楽しい日々だった。毎日毎晩、色々なことを語り合って盛り上がったものだ。本当に楽しかった。

 そんな自分に転機が訪れる。2011年、自分のブログが、とある人物の目に留まったのだ。それが誰であったのかは言わないが、とあるジャンルのナンバーワン雑誌を立ち上げた編集者(元・編集長)だった。聞けば、東京であるプロジェクトが進んでいるらしい。そこでライターとして、自分を起用してくれると言うのだ。プロジェクトに関わる面々は、自分もよくよく知っているビッグネームだった。

 自分は、迷わず飛びついた。あの時、自分は初めて東海道新幹線というものに乗った。あの日の京都駅の光景は今もよく覚えている。とても陽の眩しい初夏だった。

 初めて踏んだ東京の地。かつて小説家を目指していた時代、あんなにも憧れていた東京だ。小説家を志してから、8年の月日が過ぎていた。ついに自分はビッグチャンスを掴んだのだ。ここから自分の新しい人生が始まるのだ。そう、思っていた。

 東京で自分に与えられた仕事はゴーストライターだった。とある業界の、とある著名人物のゴーストである。別にゴーストであることに不満は覚えなかった。むしろ誇らしかった。東京から京都に戻ると、すぐに作業に取り掛かった。

 休日は新幹線や夜行バスで東京と京都を往復し、取材をし。地元での仕事が終われば、それを元に眠い目をこすりながら必死で、必死で一冊の本を書き上げた。頑張った。頑張ったのだ。

 2012年の春には原稿も完成して、先方に渡していた。だが、本はいつまでもいつまでも発刊されなかった。もちろん、報酬も支払われなかった。やきもきし、イライラが募る日々……。ただただ日々が過ぎてゆく。聞けば、上層部で偉い人同士が色々と揉めていたらしい。プロジェクトは瓦解に向かっていた。自分は何も知らず、何もできず、誰からも忘れられて放置されていた。

 2013年の春になって、ようやく本が発刊される。「こんなものは売れないだろう」と言われていたのだが、蓋を開ければ1週間で重版決定。ネット上ではサインに追われる著名人物の写真が上がっていた。そして、その人物の息子の編集者が得意げな笑顔を浮かべていた。全てを理解した。つまりは、その息子に華を持たせる為に、これだけ引っ張ったのかと。ああ、そうか。自分はこの為の捨て石だったのか。なお、まだ報酬は支払われていなかった。サイン会やイベントにも呼ばれることは、一切なかった。自分は、もはや存在しないことになっていた。

 自分は、もはや完全に捨てられていた。自分は本を自腹で二十冊ほど買い取った。その本が送られて来た時、自分は風邪で寝込んでいた。誰に知られることもない。送られて来た本を病床で手に取り、泣いた。ただただ空しかった。全てが虚しかった。嬉しさなんて、なかった。「俺は……俺は頑張ったよな……? 昔の俺、俺は頑張ったぞ。こんな形やけど、やっと商業で本を出せたんやで……?」。自腹で買い取った分は、一冊一冊に手書きで手紙を添えて、お世話になっていた方々に送った。

 それから呆けたような日々が始まった。当初の予定では、その後もライターとして活動するはずだった。だが、プロジェクトそのものが空中分解したので、もはや自分の居場所などない。「他に事業を立ち上げている。軌道に乗ったら東京に呼ぶから!」と偉い人が言ってくれた。それから10年が経つが、今もそんな連絡はない。ライター業界のあるあるだ。年賀状だけはいまだ来る。お世話になったのは確かなので、ちゃんと年賀状をこちらからも送っている。

 それと同時に、全てがつまらなくなってしまった。新聞や雑誌に出て来る有名人のコメントなど、全てはゴーストライターが書いた創作だと知ってしまったからだ。この世の全てはまがいものだと分かってしまったからだ。ああ、有名アーティスト名義の「作曲」とか「作詞」だってゴーストのが多いですよ。真に受けたらだめです。

 自分が書いた本について。「■■さんから若者に向けたメッセージも必読です!」というコメントがついていた。すまない、それは100%、俺がでっちあげたものなんだ。あの本の9割は、自分が勝手に創作したものなのだ……。有名人の書いた本なんて、そんなもんですよ。せいぜい1時間ほどインタビューで語るだけで、莫大な額の報酬が出るんですよ。そしてゴミのような赤字価格で、使い捨てライターがせこせこ文章を9割分、盛るんですよ。この世に、信じるにたるものなんてない。全てが、バカらしくなってしまった。あらゆることに感動できなくなってしまった。

 2012年頃から自分は東京へも同人誌即売会に足を運ぶようになっていた。幸か不幸か、東京へ行く習慣がつくようになっていた。初めて参加したコミックマーケット、初めて参加した博麗神社例大祭……その規模と賑わいには驚愕した。カメラを手に取り、コスプレなんてものを撮ったりもして。

 そんな中で一人の女の子と知己の間柄になっていた。関東のコスプレイヤーの女の子。自分のブログもよくよく読んでくれていたし、自分の写真についても理解してくれていた人だった。強気な性格で、何度か仲がこじれたこともあったが、その度に修復し。お互いに大切な仲間であり、本当に良き友人であった。お互いに、そう言い合える程の間柄だった。

 2013年の例大祭、その子がサプライズで自分の本を買ってくれていた。そして言ってくれた。「この本の中には、確かに〇〇さんがいます! これは間違いなく〇〇さんの書いたものです!」。あんなに嬉しい言葉は、なかった。欲しくて欲しくてたまらなかった救いの言葉だった。

 ……どん底のメンタルだった自分は、コロっといってしまった。恋に落ちるなという方が難しくないか?

 八月の夏の日。本を買ってくれたお礼として、食事に誘った。ようやく出た、なけなしの報酬は全てそこに注ぎ込んだ。ランドマークタワーの最上階でランチをした後、横浜の街を歩いた。夏の空と青い海、ポートレートを撮りながら、みなとみらいから山下公園まで歩いた。

 天気は快晴。陽光を浴びて輝く白いワンピースを着て、嬉しそうにその子は自分の横を歩いていた。潮風に黒髪がなびき、スカートの裾が翻る。

「海がない京都盆地で育ったので、海はいつ見ても不思議なんですよ」

「私は逆に、海がある横浜で育ったので、海があるのが当たり前です!」

 そんな他愛ないやりとりもした。

 真っ青な海と空を眺めながらベンチで休憩していると、不意にその子は地面に手を伸ばして何かを摘み取った。そしてその子は自分に四つ葉のクローバーをプレゼントしてくれた。四つ葉のクローバーの本物を見たのは、後にも先にもあの時だけだ。

 全てが恋愛映画のワンシーンのようだった。フィクションではない、全て実際にあったことだ。あんな幸せな時間はなかった。歩いている途中、「ああ、どうしてこんなに今、自分は幸せなんだ?」と何度も顔を覆った。幼い頃から家庭は不和が続き、家の中ではひとり出来の悪い自分は恥扱い。仕事もうまく行かず、ワーキングプア。知人に貸した金は焦げ付き、裁判にまでなった。あらゆる事象が重なり合う中、たったひとり、ずっとずっともがき苦しんできた。そんな自分が、こんなにも「幸せ」を感じていてもいいのか……?

 「ありがとう」。別れ際、地下鉄でその子の手に縋りついた。自分の人生で、心から幸せだと思えた時間だった。

 そして結末を書く。相手には彼氏がいたよ。

 何となく察していない訳ではなかったが、それでも自分は再びどん底に叩き落された。その子と最後に顔を会わせた2013年の冬コミは地獄であった。まあ、全て自分が悪いわけだが。とは言え、あの横浜の日以上の幸せを自分はいまだ知らない。その後、彼女ができることになったが、その中でもあれを超える幸せを感じることはなかった。今も横浜は好きな街だ。先方には随分と悪いことをしてしまったが。でも、きっと死ぬまで、あれを超える幸せを感じることはないのだろう。例えそれが偽りであり、仮初でしかなかったとしても。

 再び、地獄のような辛さと虚しさに苛まれる日々がはじまった。そんな中、晩秋の頃だっただろうか。ゆーさくさんが一本の動画を紹介してくれた。MMDによる秘封倶楽部の動画だった。

 実際にはニコニコ動画にアップロードされていたものだったはず。この動画を観た時、「秘封倶楽部で小説を書きたい」、そう思った。そんな衝撃に撃ち貫かれた。もう一度、小説に取り組んでみようと思った。これが京都秘封探訪のはじまりだった。

~京都秘封探訪の日々~

 「秘封倶楽部で小説を書こう」。そう思い立ち、準備を始めた。2013年の科学世紀のカフェテラスをじっくりと観察し、どのようなイベントかを改めて見て周った。年が明けると共にブログを立ち上げ、一眼レフを持って京都の街を歩いた。そして、それらをブログにまとめた。

 まだ心の傷は癒えていなかった。だが、必死で歩いた。心挫けそうになりながらも、冬枯れた京都を一歩一歩、歩いた。ひとりぼっちだった。そこには友人も仲間も恋人も、温かな家族もなかった。ただただ一人、黙々と寒空の京都を歩いて回った。歯をくいしばり、人気のない史跡と寺社を徒歩で訪れて周った。虚しさとの戦いだった。

 春になる頃には構想も随分とまとまったので、実際に本を書き始めた。毎日の仕事から帰ったら、パソコンを立ち上げて小説を書く。本を書くのはスプリントレースではない。マラソンだ。とにかくノルマを決めて、一日一日を積み上げてゆく。目標は1日6ページずつ。それを50日ほど繰り返す。根気と忍耐。ひたすらに、ひたすらに。睡眠時間を削りつつ、着実に確実に書き上げてゆく。

 表紙やカバーを創る技術を知らなかったので、高校時代の友人に協力を仰いだ。春日野トバリ先生だ。当時、彼はもともと漫画家を目指していたが、一度は挫折して宙ぶらりんになっていた。ありがたいことに二つ返事で受けてくれた。そして268ページの小説が出来あがった。

 初めての同人誌が出来上がった。「開闢の物語」。秘封倶楽部の二人が舞台演劇を通じて、幻想郷の開闢の光景を垣間見るというストーリーだ。今、読み返せば文量は少ないし、誤字脱字だらけだし、酷い物だ。でも、今でも一番のお気に入りの本である。

 そして2014年11月2日、初めてサークルの側として科学世紀のカフェテラスに参加した。九州からはゆーさくさんが応援に駆けつけてくれて、地元・京都のコスプレイヤーである銀さんも手伝いに来てくれた。

 新しい知人、新しい仲間を得て、自分は再び立ち上がることができた。もう一度、本を書くことが出来た。本が実際に売れるのかどうか、需要があるのかどうかは不安で不安でしょうがなかったが、それは全くの杞憂だった。30分で完売したからだ。秘封倶楽部における小説の人気の高さに驚いた。完売した後、パイプ椅子に座って呆けていると「rebellion」が流れ始めた。今でもよく覚えている。

 ……その後もサークル活動は順調だった。本を出せば再販を含めていつも完売。多くの方々から嬉しい感想もたくさん頂くことになった。

 コミックマーケットや東京秘封にもサークル参加した。Twitterでも知人はどんどん増えた(フォロワーを増やそうと思ったわけではないけれど……)。秘封倶楽部についての妄想や京都という街について、毎日毎晩のようにバカ騒ぎの大盛り上がりをしていた。面白くて面白くて仕方なかった。笑い死ぬかと思ったことも何度もあった。

 一方で自分は周りの人たちとは線を引き続けていた。2013年の出来事は、ずっと心に残り続けていた。ネットの人間関係はトラブルの宝庫だ。可能な限り、それを回避したい。そして今度こそは間違えない。どれだけ誘われても、フォロワーの方々と個別に会うことはできるだけ避けたし、オフ会のお誘いも断り続けてきた。イベントの後も、数少ない古くからの仲間たちとひっそりと打ち上げをするだけに留めていた。

 案の定、秘封界隈では盛り上がりの裏で色々な人間関係のトラブルが起こっていた。だが、自分がそれらに巻き込まれずにいれたのは、やはりそういうスタンスが功を奏したのだろう。

 2015年の新刊「黎明の物語」。276ページ。この年は別の本を書く予定だったのだが、5月の例大祭で「東方深秘録」が発表され、宇佐見菫子が登場。秘封界隈を大きく動揺させた。そのことがきっかけで、宇佐見菫子と蓮メリの秘封倶楽部、その関係性をうまく整合させよう……として書いた小説だった。

 こちらも無事に完売したし、再販もした。紫堂七海さんだったろうか。「この本が気になって、初めて同人誌即売会と言うものに参加した」と仰ってくれたのは。今もずっと自分の本を買いに来て下さっている。ありがとうございます。

 どんどん仲間や知人も増えた。ゆさけーさんや、しずおかさん。紛失王子さん……。多くの人たちの顔が頭をよぎる(皆、今はもう京都秘封には来ていない)。新しく彼女もできて、人生そのものにも張り合いが出て来た。頑張れば頑張るほどに成果は出た。うまく行きすぎる程に、うまく行きすぎていた。本当に楽しい日々だった。

 2016年の新刊、「追放の物語」。蓮子とメリーが同人誌づくりに挑戦するお話を書いた。書いている途中で「燕石博物誌」が発表されて、びっくりした。

 この年、科学世紀のカフェテラスで初めて100部を超える売り上げが出た。これまでの本も、再販を含めれば全て3桁の数が出ている。小説サークルとして、これは十二分に凄い事だろう。秘封倶楽部の人気もますます高まるばかりだし、イベントの参加者数もどんどん増えてゆく。順調な日々。まさに、自分のサークルも飛ぶ鳥を落とす勢いだった。

 春日野トバリ先生も同人誌を創るようになり、コミケに毎回参加するようになった。そしてその中で編集者の方の眼に留まり、瞬く間に商業デビューが決定した。彼もまたずっとずっと苦渋と辛酸を舐めて、つらい思いの中で創作活動を続けてきた人物だった。おめでとう。本当に良かった。

 毎日が楽しかったし、イベント前はワクワクしてたまらなかった。即売会に行き、自分の本を頒布し、多くの人に挨拶をして、コスプレも撮って回る……。2016年の科学世紀のカフェテラスは、自分のサークルに挨拶に来てくれる人が途切れなくて、超々々大忙しだった。後でお隣さんから「めちゃめちゃ賑やかですね!」とびっくりされた。イベント開催時間はとにかく喋り倒した記憶しかない。

 この時は前日に「秘封倶楽部の隠れ家」なんていうコスプレ撮影イベントを企画した。京都の西洞院御池にあったVスタジオさんという洋館風のスタジオを借りて撮影会を開催した。事務仕事は大変だったけれど、多くの方が来てくれて、楽しんでくれた。……一方で、この時、手伝ってくれていたコスプレイヤーの彼女の顔は暗かった。イベント後はかなり御機嫌斜めであった。

 ただ、あまりにも上手く行き過ぎて、時々、脳裏を不安がよぎることがあった。「転ばないように」注意しなければ……。そう思うようにもなった。

 小説以外にもチャレンジして、こんなものも作った。「月と星から考察する秘封倶楽部の年代」というレポート。東京秘封とコミックマーケットで頒布した他、2017年には名古屋の「幻想郷フォーラム」にてプレゼン発表を行った。

 あの発表には大勢の人が来てくれた。100人はいただろうか。その中には、そひかさんやネコツグミさん、東風谷アオイさんやRZ67さんといった、見知った顔も多かった。本当にありがとうございます。

 ……思えば、この時が京都秘封探訪のピークであった。ここから、唐突に下り坂の日々が始まって行くのだが、この時の自分はそんなことが起きるとは全く思ってはいなかった。

 2017年の夏。コスプレイヤーの彼女から別れを告げられる。別れた直後、春日野トバリ先生から「親の介護をやり終えた時の顔をしている」と言われた。心も体も極めて弱く、多額の借金を抱えていた彼女だったので、実際それを背負う苦労はとんでもなかったのは確かだ。一方で、その喪失感は半端なかった。別れる時も揉めに揉めた。

 心が折れそうになる中、必死で原稿に取り組んだ。仕事も忙しくなり、毎日ふらふらになりながら帰宅した。心も体も疲労が蓄積しきっていた。パソコンの前に座っても頭が動かない。動いてくれない。乾いた雑巾を絞るように、一言一句、なんとか文章を捻り出してゆく。本当に疲れていた。数行書いては、休憩して、数行書いては、また休憩する……。そうしなければ、書けなかった。本当につらかった。本当に苦しかった。小説そのものがかなり長い内容となったこともあって、書いても書いても終わらず、どんどん締切が近づいてゆく……

 そして悪いことは続くものだ。この時、小説のイラストを頼んでいた絵師の人からも横やりが入る。曰く「こんなことは書いてはダメだ。こんな小説なら、自分は協力しない」「書き直せ」と。かなり強い口調で攻められた。締め切りの二週間前だったろうか。ここで揉めたら、もう間に合わない。

 ……もう限界だった。突然、周りは全てが敵になってしまった。全てが自分の足を引っ張り始めた。そして自分は、この本を自分一人で創り上げることを決めて、絵師の人にもこちらから断りを入れた。なお、彼はいたずらにこちらを批難した訳ではない。こちらの身を想って言ってくれていたのだ。彼に罪はない。一切ないことを付け加えておく。だが、それでもきつかった。

 そしてふらふらになって倒れそうになりながらも、一冊の本を完成させた。

 2017年、「蓬莱の物語」。312ページ。電撃文庫の換算では330ページ分ぐらいある。自分の同人誌史上、最も長い小説になった。

 「蓬莱人形」をテーマとした秘封倶楽部の小説。今までの自分の小説の中では、ややグロテスクかつホラーな表現も多い内容だった。書いていて、あまり気持ちのいいものではなかった。エログロみたいなのって、書きたくないんですよ。そういうのは書いていて、何だか心が痛い。

 表紙は自分で作った。必死で素材サイトを巡って、必死でフリーのグラフィックソフトを使って、試行錯誤しながらなんとか表紙を創り上げた。残り少ない時間で、なんとかやってのけた。この時、表紙にイラストがなかったのは、そういうトラブルが理由だ。

 当日のサークルを手伝ってくれる人もいなくなってしまったので、慌てて方々に声をかけて人手をかき集めた。幸い、知人のコスプレイヤーの女の子たちが来てくれた。ありがたい話だった。

 そして迎えたイベント当日。この時は何もかもが微妙な雰囲気だった。まず、いつものみやこめっせが使えず、会場がパルスプラザになっていた。さらに前日、京都を台風が直撃して欠席も相次いだ。売れ行きも正直微妙だったし、初めて完売しなかった。とは言え、最終的な部数は過去最高となったし、今なおこれを超えた売り上げの小説はない。そして戴いた感想や反応も過去で一番多いものとなった。世の中、何が起きるか分からない。ただ、自分はもうボロボロになっていた。

 あれだけ人間関係には注意を払っていたのに、京都秘封探訪は身内からの攻撃で崩壊した。自分は抱え込んだトラブルや苦しさを必死で隠して、何とか笑顔を作ってサークルスペースに立った。本当に苦しかった。苦しかった……。彼女もまた秘封界隈の人間だったので、諸々については墓まで持って行くつもりだった。だが、最終的には、ヘラヘラしながらやって来た元カノの信じられない行動を見て、堪忍袋の緒が切れてイベント中にブチ切れた訳ですが。ガリチキさん、せっかく来てくれたのに、あの時は本当に申し訳なかった。皆の楽しいイベントを台無しにしてしまった。その自覚はある。本当に申し訳がない。

 怒り心頭、激怒のイベント。……そんな中、ひとりの小柄な女の子がひょこひょこやって来た。その子は隣にいる紛失王子さんとひとしきり楽し気に話をした後、「蓬莱の物語」も買って立ち去って行った。女の子が自分の小説を買って行ってくれるのは極めて珍しい。一度のイベントに1人か2人ある程度だ。部数に比較すれば1%にも満たない割合である。不思議に思って紛失王子さんに「あれ、誰ですか?」と聞いたら「あれがマイナスさんですよ」と教えてくれた。

 名前は知っていたし、絵も見たことはあったが女の子だとは知らなかった。相互だが、やりとりしたことは一度もない。なお、その背格好に、特徴的な高い声……2013年のあのコスプレイヤーの子にそっくりだった。なんなら出身県も同じである。3年ごしに自分を責め立てに、わざわざ京都までやって来たのかと本気で思った。

 失礼な話、「うわっ、怖ッ! 近づかんとこ……」とか思った。今でもマイナスさんの容姿と声にはやや苦手意識がある。申し訳ない。マイナスさんが悪い訳では決してないのだ……。まさかその時は、数年後、ひとまわりは年下であろう女の子にこちらから頭を下げて、自分のサークル活動に深く御助力頂くことになるとは夢にも思わなかった。神というものがいるなら、よほど悪趣味だし、運命というものがあるなら、よほどグロテスクな形をしているのだろう。神も運命も一切合切信じてはいないが。

 ……それからも踏んだり蹴ったりの日々が続いていた。人間関係のトラブルだけではなく、仕事の忙しさも相まって「脳が疲れ果てる」ということを知った。筋肉と同じで、脳も物理的に疲れるんだなと思い知った。

 睡眠時間も取れず、休憩時間も取れず。頭も心も身体も疲れ果てる日々。何もかもがズタズタだった。それまで積み上げて来たサークルの活動も、ことごとく崩れ去っていった。元カノとのゴタゴタで、何人もが自分の元を去って行った。完全に活動に「ケチ」がついてしまった。自分は全てを失いつつあった。

 Twitterでもかなり荒れていたと思う。そひかさんが「慧さん、ストップ」と制止してくれたことを今でも覚えている。ありがとう。今、あなたが病んでいる中、何もしてあげられないのを許して欲しい。

 とてもではないが、小説が書けるような体調でもメンタルでもなかった。何をやっても楽しくない日々。自分はこれまで一体、どうやって生きていたのだろう? サークル活動の何が楽しかったのだろう?

 やはり、趣味と言うのは3年がひとつの区切りなのだろう。元カノとの一件がなくとも、サークル活動のマンネリ化には悩み始めていた。遅かれ早かれ、結果は同じだっただろう。元カノとは2年半つき合ったが、やはり3年の壁を超えられなかった。つき合い始めた時から、「この子と別れることがあるなら、原因は間違いなくコスプレだろう」「3年がひとつの試練になるだろう」と思っていたし、ずっとずっと気を付けていたのだが、破局を防げなかった。残念でならない。

 そして何よりも「睡眠時間を削りまくって小説を書く」。そのことの無理と疲労が蓄積しきっていたのだ。元カノとのことも、その為に元カノの方まで心が回らなくなっていた。それも正直あった。秘封倶楽部の隠れ家における、彼女の不機嫌の理由はそれだ。「自分を放置して、他の人とばかり楽しくやるな!」ということだ。自分でも分かっていた。自分は自分の持てる時間と体力のキャパシティを超えてしまっていたのだ。

 毎日毎日、仕事が終わると烏丸線のシートにぐったり倒れ込んだ。「また来年も小説が書けるだろうか? 少なくとも今は小説なんて書けない。半年ほど休めば、また元通りに書けるだろう……」。そう思って、少しでも身体を休めようとした。だが、回復はしなかった。

 年が明けて2018年。また、小説を書き始めなければならない季節がやってきた。自分は再び原稿に向かったが、本当に苦しかった。昨年と同じく、数行書いては休み、また数行書いては休む……。脳が疲れ果てていた。頭が回らない。疲労困憊、何の言葉も浮かんでこない。もう、無理だった。

 2018年の新刊「邂逅の物語」。秘封倶楽部の出逢いの物語を描いた小説だ。電撃文庫に準じて282ページ。昔から書きたいと思っていた小説である。大学に入学した蓮子とメリーが出逢い、絶望や失望の中から再起して、汗臭く泥臭く埃に塗れながら新たな道と楽しみを見出してゆく……というお話である。

 文章は今までで最低のものになったと思う。なぜなら、もう頭が疲れて果てていて文章が思いつかなかったからだ。過去作からあからさまにコピー&ペーストした部分もある。我ながら、酷い本を出したと思っている。話自体は気に入っているし、こういった「成長物語」は自分が一番書きたかったテーマでもあるのだが。

 売れ行きも微妙だったし、もちろん完売もしなかった。読んでくれた方からの反応も過去で一番微妙だった。サークル・砂糖蜜売所の舞さんだけは大絶賛してくれたので、それがとれも嬉しかった。「いつも自分が小説を書く時、『邂逅の物語』を傍に置いて気持ちを新たにしてます!」みたいな感じだったか。メンタルがずたぼろの中、随分とほっとしました。ありがとうございました。

 京都秘封探訪に、かつてのような勢いはもうどこにもなかった。2016年、あんなにも多くの人たちが挨拶しに来てくれていたのが嘘のよう。静かな、静かな、閑散としたサークルスペースだった。手伝ってくれる人もおらず、買い物にも行けずコスプレを撮りにいくこともない。ただ時間が過ぎ去るのを待つだけの、虚しい、虚しいイベント時間だった。元カノとのもつれも絡んで、あからさま自分を無視して、隣の紛失王子さんにだけ挨拶をしてゆくケースもあった。

 ……もう自分は限界だった。

 24時間、頭痛が途切れることがない。何ヶ月も、何ヶ月も。「休まなければ、自分は死んでしまうだろう」。そう思い、執筆活動の休止を宣言した。翌2019年の例大祭で「邂逅の物語」の残りを捌ききった後、自分はサークル活動を休止した。英断だったと、自分でも思う。

 2019年は、ひたすらゆっくりのんびりした。小説のことなど一切考えなかった。考えられなかったというのもある。とにかく頭を休める、脳を休める。そのことに努めた。

 2019年の科学世紀のカフェテラスは、幸いなことにサークル・デトタリス銀河のうわずみさんの所で売り子をすることになった。誰もが認める神絵師のうわずみさん。やはり凄かった。春日野トバリ先生の所で売り子をした時も思ったが、客層が小説サークルとはまるで違う。女の子の比率が半端ない。コスプレイヤーの女の子が買いに来てくれたことなんて、自分のサークルにはないですよ。もちろん、挨拶の列も途切れない。サークルを捌くのは、コミケ東館3日目のような忙しさだった。やはり小説と違って、イラストの持つ訴求力は凄まじいのだなと思った。なお、うわずみさんが色紙を一から水彩で仕上げる工程を目の前で見学できたのは自分の自慢のひとつです。

 イベント後、うわずみさんとマイナスさんの三人でご飯を食べることになった。お二人が合同で本を作っていたからだ。本当に素晴らしいイラスト集だった。神絵師ふたりと、京都駅前のヨドバシカメラで鎌倉パスタを食べたのを覚えている。うわずみさんを喫煙所に送り届けた後、京都駅の新幹線乗り場が分からないというマイナスさんを新幹線中央口まで送って行ったっけ。大混雑の京都駅南北自由通路、人ごみに流されそうになりながら、必死で後をついてくるマイナスさんを「ちゃんと着いて来とるか? この子、ホンマに大丈夫か……?」と何度も何度も振り返って確認した。なお、この時、自分では全く気がついていなかったが、この時の食事会が、サークル活動再開の方向性を決めることになった。

 年が明けて2020年。いまだ身体は癒えていない……。そしてここで世界を揺るがす大きな出来事が起きる。コロナ禍だ。自分も否応なく巻き込まれた。

 慣れない生活様式、先行きの見えない時代の到来。さらに猛暑だ。自分の身体は悪くなる一方だった。まず、酷い不眠に苛まれた。眠りたくても眠れない。眠れないから身体は休まらない。指一本、動かすのも苦しい。全身の細胞すべてが疲れ果てているかのような倦怠感。うとうと眠ったと思ったら、自発呼吸が止まってしまい、それで目が醒める……慌てて必死で呼吸する、何度も、何度も、何度も、何度も。

 あの時代は地獄だった。あまりにも苦しいので、本気で心療内科にでも掛かろうかと思った。薬を飲んで楽になるなら、そうしたかった。そんな体調不良が数か月続いた。今思えば、自律神経が完全に失調していたのだろう。本気で死を覚悟した。どうしてあの時代を乗り越えられたのか、今でも分からない。

 とにかく、規則正しい生活を心がけた。涼しい所で休んで、たっぷり栄養を摂る。良くも悪くも、こういう時は社会人の方が規則正しい生活が取れてしまったりもする。おかげで涼しい秋になる頃にはだんだんと元気になった。バイオリズムが底を打ったのだろう。長い長い苦しみは、ようやく寛解に向かい始めた。

 そんな時、ふっと思った。「小説が書きたい」と。

 再び、のろのろと小説を書き始めた。だが、以前のようなペースではない。週に2日だけ、書き進める超スローテンポ。とにかく無理をせず、また脳が疲れてしまわないように細心の注意を払いながら、そろりそろりと歩き始めた。

 小説は「地下鉄に乗るっ」を題材とした小説だった。2017年頃から構想を温めてあった小説だ。秘封倶楽部の小説は正直ネタ切れ感もあったので、そちらでサークル活動を再開することにした。ゆっくりゆっくり、亀の歩みの様に小説を書き進めて行った。一通り書き上がったのは2021年の夏のことだった。書き始めて10ヶ月もの歳月が過ぎていた。かつての10分の1のペースでの進行だった。

 せっかく書き上がったのだから、本にしよう。さて、表紙はどうするべきか……。理想は、やはりイラスト付きがいい。だが、もう絵師の人に頼むのがすっかり億劫になっていた。

 小説サークルというのは、絵描きの人から酷い扱いを受けることが多い。作品を人質に取られて「こんな内容だったら、イラストは描かない」と脅されたり、締切を全く守って貰えず、深夜早朝の対応に追われることになったり。「小説ぐらい自分でもちゃちゃっと書くわ~。書かないけど」とバカにされたり、世間話で「小説を書いている」と言っただけで、いきなり「絵の依頼は受けない!」と言われたり。Twitterでよくやり取りしていた絵師の人に即売会で挨拶に行ったらあからさまに嫌そうな顔をされたり……等々。これらは全て実際にあったことだ。小説サークルを立ち上げて10年間、そんなことの連続だったし、今でもそういうことはよくある。小説サークルの扱いなんてそんなものだ。

 コスプレイヤーの世界もそうだったが、絵描きの世界もインスピレーションがものを言う世界だ。とかく、小説の世界とは相性が悪い。性格も尖った人が多い。マイペースと言えば聞こえは良いが、締切にルーズな人も多い。下手に頼んで人間関係のトラブルに悩まされるのは二度と御免である。締切直前のハシゴ外しはもっと勘弁して欲しい。おまけに今回は「地下鉄に乗るっ」なんていう超マイナージャンル。地下乗る界隈にも、人脈は全くない。……そんな中で、たったひとりだけ受けてくれそうな人に心当たりがあった。マイナスさんだ。マイナスさんに頼んでみようと思った理由は三つある。

①自分のサークルに小説を何度も買いに来てくれていた

②他の人(うわずみさん)を介して面識があった

③Twitterでネガティブな発言がとにかくない

 ①は自分の小説に多少なりとも理解があるということ。②については、まぁこれは京都的な仕事の進め方ではある。京都では、こういう筋の通し方があったかどうかで全てが決まったりする。③はメンタルの安定性、これも大きい。

 「ジャンル外だしなぁ……」と思いつつ、ダメ元で連絡を取ってみたら、マイナスさんは快諾して下さった。それどころか小説を細部に亘るまで読み込んで、いくつも案を提案して下さった。仕事の速さと丁寧さには本当に驚きだった。もちろん、締切もばっちり守って下さった。念の為に……とこっそり作ってあった自作表紙は全く必要なかった。

 2021年、3年ぶりの新刊「萌とはじめてのカメラ」が完成した。332ページと、過去で一番長い小説になった。表紙については可愛すぎるの一言だ。デザインも素晴らしい。マイナスさん、本当にありがとうございます。そりゃ、うわずみさんがすげーすげー言う訳です。正直、ぶったまげた。

 内容は、高校に入学した少女・太秦萌がカメラと出逢い、自分のやりたいことを見つけ出してゆく。そして京都の街を撮り歩く中で、様々な人と出会い、様々な京都の横顔を目撃し、成長してゆく……というものだ。昔から書きたかったんですよ、これ。

 いざ頒布、しかしネックは、頒布できる場所がなかったこと。「地下鉄に乗るっ」の即売会は京都で毎年行われているが、公認イベントでもある為、レギュレーションがかなり厳しい。少なくともこの小説はアウトだった。コミケもやるのかやらないのか分からない状況だったし、東京で頒布してもしょうがない内容でもある。

 一方。自分がサークル活動を休んでいる間、「BOOTH」が普及していたので、それを使って通販という形式を執ることにした。部数は、自分がこれまで刷った中でも圧倒的に少ない部数。おまけに1冊1500円と単価も高い(しかも1冊500円の赤字)。通販でどれだけ捌けるのかは賭けだった。

 結果から言えば無事に完売した。買い支えてくれた方の8割9割は、自分の秘封小説をずっと買い支えて下さっていた方々だった。最後のサークル参加から3年も経つのに、忘れないでいてくれた。嬉しかった。

 それだけではない。これまでになかった購買層の方々からも需要があった。地下鉄に乗るっはもちろん、カメラ愛好家の方。京都散策を趣味とする方。普段は即売会にいらっしゃらないような地域・世代の方にまで……多くの方に買って頂いた。感謝しかない。感想も、もちろん多くの方から頂いて、三階松さんやにれんさんのように、この本を片手に京都の街を実際に巡って下さるような方もいらっしゃった。何よりも楽しんで下さった証拠です。ありがとうございます。

 ……そしてこの「萌とはじめてのカメラ」の執筆には別の意味もあった。「自分は、誰にも見向きもされないマイナージャンルで、しかもほとんどの人に興味すら示して貰えず、それどころか嘲笑されることすらある『小説』を書いて、しかもそれを赤字価格で頒布できるのか。お前の作品に対する愛は、情熱はいかほどのものなのか。お前に小説を書き続ける覚悟はあるのか」。それを自らに問うた作品でもあった。見事に自分はやり遂げてみせた。

 この「萌とはじめてのカメラ」を機に、京都秘封探訪の第二期とも呼べる活動が始まった。

 2022年、「京都秘封喫茶探訪」。これも2017年頃に構想があり、少しだけ書き始めていた小説だった。5年越しにようやく完成させることができた。イラストはもちろん、マイナスさんである。

 蓮子とメリーの秘封倶楽部が京都の喫茶店を巡る物語だ。その中で京都の四季折々の光景や、京都を懸命に生きる人々の姿を目撃するという物語。296ページ。ぶっちゃけ「萌とはじめてのカメラ」とやってることは一緒である。あっちも喫茶店巡りの要素が各章必ず入っていたし。

 BOOTHで先行通販した後、4年ぶりに「科学世紀のカフェテラス」にサークル参加。無事に完売することができたし、再販も2度することになった。

 イベントで真っ先に買いに来て下さったのは紫堂さんだった。ずっとずっと自分が秘封の小説を再び書くのを待ってくれていたそうだ。4年間、お待たせしました。本当にありがとうございます。通販では、「萌とはじめてのカメラ」を絶賛して下さった賀茂水さんも買って下さった。賀茂水さんが「秘封の小説も読んでみたい」と仰って下さらなかったら、この小説の原稿をフォルダから再び掘り起こすことはなかったかもしれません。

 この本もまた、多くの方に買って頂いて、実際に京都の喫茶店を巡って下さる方が何人もいらっしゃった。その中には海外在住の方までいらっしゃった。購入して下さった方のお名前を全てここで挙げることはできませんが、購入報告は全て、覚えております。本当にありがとうございます。

 京都秘封探訪は、皆様のおかげで蘇りました。少しでも楽しんで下さっていたら、嬉しいです。

 そして2023年。「はじめまして京都市電」。イラストはマイナスさんが気合を入れて可愛らしく描いて下さった。三年にわたって本当にありがとうございます。とにかく感謝しかございません。どれだけ感謝しても、どれだけ感謝しても足りない。

 テーマはかつて京都の街を走っていた「京都市電」。京都市電は地下鉄に乗るっの二次創作でも時折登場するテーマで、自分でも書いてみたかった。かつて京都の街にあった光景を……失われてしまった光景を書いて残しておきたかった。そんな一心で書き上げた小説だ。ボリュームは458ページと過去最高。執筆期間はちょうど2ヶ月だったか。たぶんこの先、自分がこのページ数を超える小説を書くことはないと思う。無理、しんどい。

 こちらも頒布できる即売会がないので、BOOTHで通販することに。部数的には「萌とはじめてのカメラ」と同じ数を刷りましたが、以前のが完売に10日ほどかかったのに対して、こちらは25時間程度で完売しました。価格は2500円(これでも赤字価格です……)と高めになってしまったのに、本当にありがとうございます。

 ……ただ、今回の小説は過去で一番反応が悪かった。完売して一ヶ月……感想というものが一件もなかった。こんなことはサークル活動10年の中ではじめてのできごとだった。ただひとり、感想を下さったのは業務上のなりゆきでやりとりをしたマイナスさんだけだった。「感動しました!」とストレートに言って下さった。自分の小説を読んで「感動した」と言われたのは、人生で初めてのことです。温かな言葉の数々をありがとうございます。京都市電をテーマとした秘封倶楽部のイラストも嬉しかった。ファンアートとも違うでしょうが、自分の小説をきっかけに、絵描きの人が自発的にイラストを描いて下さったのも初めての事です。他にはいつもの賀茂水さんが感想を下さった。「京都の街や歴史や暮らしへの愛に溢れていて、幸福な気持ちになった」とのこと。京都を愛する賀茂水さんならではの感想、まさに自分が描きたかったのはそれです。ありがとうございます。

 もちろん、自分は感想が欲しくて小説を書いている訳ではない。今回の小説は一番不評(?)に終わってしまったけれど、自分が書きたかったテーマを、商業では決して出すことができない本を、誰にも負けない熱量を込めてきちんと書き上げることができた。この結果には納得もしているし、満足もしています。これぞ同人小説の極致。これぞ京都秘封探訪の到達点。誇りにすら思う。

 ……でも。高いお金を出して買って頂いたのに、もしつまらないものを読ませてしまっていたのなら……それは心苦しくもあります。申し訳ございませんでした。

~結局、自分には才能がなかった~

 ……こうして京都秘封探訪の活動、10年間を振り返ってみてハッキリ分かったことがある。それは「自分には才能がない」ということだ。

 「京都市電」で感想がなかったこととかは全く関係がない。とにかく自分には「文章を書き続ける」才能がないのだ。その証拠に、ここ数か月、自分はまた体調を崩し始めている。明らかに自律神経が悲鳴を上げ始めているのだ。やはり、3年間はひとつのスパンであるらしい……

 仕事の合間に睡眠時間を削って小説を書き続けること。それは……本当に苦しい。「喫茶探訪」「京都市電」も描いている最中に、みるみる内に体調が悪くなってゆくのを感じていた。

 商業の世界を見てみれば、怒濤の如くに新作を連発してゆく人がいる。「寺町三条のホームズ」の望月先生なんかは自分にとっては化物にしか思えない。自分には「自律神経のタフネスさ」「脳の体力キャパシティ」という点で、とにかく才能がなかった。

 商業作家で華々しく活躍される先生方を見ていると、自分には悲しくなるぐらい体力がない。筋肉的な意味ではなく、脳神経という面でだ。自分は年に一冊、本を書くだけで脳神経が悲鳴を上げる。悔しいことだが、これが自分にとっての物理的限界であるらしい……。自分には商業作家など、到底無理だった。同人作家で、ちょうどよかった。

 特にここ数か月、夏頃から仕事も忙しくて、今の生活をつづけたなら、そう遠くない内に命を落とす予感がする。過労死ラインの1.5倍、それがずっと続いている。とにかくぐっすり眠りたい。疲れすぎて、食事が喉を通らない。固形物を食べる元気がない。そこに小説を書く余裕があるかと言われると、かなり厳しい。今年、本当に新しい本を出せるのだろうか。

 この10年間は決して楽しいだけのものではなかった。日々の生活と仕事の合間、睡眠時間を削って削って根を詰めて小説を書く。心身は擦り減るし、多くの人間関係にも嫌というほど悩んで、疲労困憊になった時期もあった。

 10年前、同じ頃に同人をはじめた知人たちはみんな引退してしまい、自分だけがひとり残されて今もこうして細々と小説を書き続けている。それが少し悲しくもある。

 他に有意義な時間の使い方だってあったろう。例えば資格の勉強をしたりとか、語学の勉強をしたりとか。あるいはもっと気軽に手軽に楽しめるコンテンツにどっぷりはまることだって出来たはず。気になる映画やアニメを見たり、旅行に行ったり……もっともっとくつろいで楽しめる趣味だって山のようにあったはず。

 活動の仕方だってそうだ。1冊60ページ分ぐらいの短編を量産したり、あるいはツイッターにショートストーリーを投稿し続ける方が、よほど多くの人から反応もあって、よほど人気も出るだろう。もっと言えば、小説なんてやめてしまって、写真ブログみたいなものを始めた方がずっと気楽だ。自分をTwitterでフォローしに来てくれた方々は、むしろそちらの方を望んでいる。自分でもはっきりと分かっている。

 なのになぜ、毎年300ページの長編を書き続けようとしているのか。最も、自分が「損をする」活動スタイルなのに。最も、自分が「報われない」活動スタイルなのに。

 特に2017年以降、「小説を書くのは苦しい」とばかり思うようになってしまっている。本当に、本当に苦しいのだ。心身ともに。でも、やめられない、やめられないのだ。どんなに心地よい「ぬるま湯」に浸かってみても、充たされないのだ。

 極限の世界に身を置くクライマーがそうであるように、苦しさの中にしか「生」を実感できないのだろう。自分はそういう人間なのだ。酒や煙草やギャンブルなど一切やらないし、興味が無い。みんなでワイワイ集まってはしゃぎたいとも思わない。思えない。何故かは分からないが、自分はそういう風に生まれ落ちてしまったのだ。きっとそちらの方が、幸せだったに違いない。みんなから愛されたに違いない。みんなで楽しく企画を組んだりして、サークル活動や創作活動に勤しめたに違いない。

「いいな、君は、みんなから愛されて」

 この10年で得た物と失った物、もはやどちらが大きいのか分からない。Silly go round。愚か者は、ぐるぐると回り続ける。それでも、それでも書き続けずにいられなかった。それ以外の叫び方を知らなかった。俺はここにいる、俺はここにいたんだ! と。それがきっと自分が生涯で残せる、ささやかな叛逆なのだろう。

 自分にとって小説を書くことは祝福ではない、間違いなく呪いだ。……でも自分の産み出した物を誰かが少しでも楽しんでくれていたのなら、きっとそこに意味はあった。そう信じたい。

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