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あれから、2年

更新日:2021年7月23日

 そうか。あれからもう2年が経つというのか。あの日のことは今でもとてもよく覚えている。あの日の京都は朝から薄暗い曇り空だった。お昼前、けたたましいサイレンを鳴り響かせて消防車両が走ってゆくのを聞いた。それも何台も何台も。


 京都市は建物が所狭しと立て込んだ狭い街であり、一度火災が起これば爆発的に炎が広がってゆく可能性が高い。事実、京都は古来より数え切れない程の大火に見舞われてきた。幕末の頃にはたった一軒の家の火事が京都全域へと延焼し、京都に住まう者の実に9割が家屋を焼亡したことさえある。


 その為、現在でも京都ではちょっとしたボヤ程度であっても、十台近くの車両が京都中から集結するものだ。実際、数年前に四条大橋西詰・東華菜館の地下配電盤にトカゲが入り込んでショート、警報が作動した時には四条大橋が消防車で埋め尽くされて大混乱となっていた。


 ……なので、今回もきっとそこまで大した火事ではないだろう、天気も悪いことだし。先斗町の火災だって延焼もなくすぐ消し止められたし。そう思って気にも留めなかった。だが、外から帰ってきた者が言った。「アニメか何かの会社が火事らしい」と。


 テレビを点けると、そこには激しく炎と黒煙を噴き上げて炎上しているビルディングの姿があった。その会社名にも覚えがあった。とてもよく覚えがあった。当時、毎日のように傍を通っていたあの会社のあの建物だ。


 何と言うことか。ただただ、スタッフの無事を祈るしかできなかった。だが、結果は――


 やがて降り出した強い雨。夕刻、叩きつけるような雨天の中、ちょうど現場のすぐ傍を車で走った。京都府道7号線、宇治橋から観月橋までJR奈良線に並走する形となっている道路で、地元の京都では外環状『ソトカン』と呼ばれることが多い。区間によってはとても狭く、信号もかなり多く、朝も晩もずらりと自動車で渋滞する道路だ。


 午後六時頃。強い雨は止むことを知らず、なおも降り続いた。どんよりとした暗さが京都と宇治に立ち込めていた。時間はまさに退勤ラッシュ。外環状にはいつものように、無数の自動車が延々と並んでいた。その中に混じって消防車が一台、二台。渋滞の中でゆっくりと進んでいたかと思うと、突然サイレンを鳴らして緊急走行を開始。現場の方角へと走り去ってゆく。これは後で知ったことだが、火災発生から七時間以上が経ってなお完全な鎮火とはなっておらず、それが確認されたのは翌日午前六時過ぎのことだったそうだ。


 六地蔵駅の周辺道路は警察によって完全に封鎖。土砂降りの中、白いレインコートに身を包んだ警察官が、路地に入ろうとする地元車両の対応に追われている。報道の中継車と思われる車両も見た。ハイスピードでワイパーを動かしながら走る外環状。とても陰鬱で暗澹とした光景だった。


 次の日の朝も、いつものように外環状を走った。山科川の少し北あたり、建物と建物の間からちらりと塔屋、つまり屋上への出入り口が一瞬だけ見えるポイントがある。あの塔屋の手前、屋上扉まであと一歩のところで二十名以上が遺体で発見されたという。専門家によると、火災当時、塔屋付近は煙で視界がほぼ完全に喪われていたと推測されるそうだ。光と生存へのあと一歩、あと一歩が届かなかった。本当に残念でならない。


 火災後、現場には献花台が設けられ、多くの弔問者が訪れるようになったと聞いた。事件から二日後、自分も現場を訪れた。


 六地蔵駅の周辺、まず目に飛び込んできたのはタクシーで埋め尽くされたコンビニエンスストアの駐車場。それなりに広さのある駐車場が、一面タクシーだらけなのだ。加えて、周辺道路への路駐タクシーも数多い。……明らかに、現場を訪れる者たちがチャーターしたものだ。そんな状況に声を荒げる地元民の姿を見た。おそらく、タクシーで来ているのは地元・京都の者ではない。なぜなら現場は六地蔵駅のすぐ目の前だ。おまけにここは京都駅からもそう遠いということは全くない。土地鑑のない人々によるのだろう。


 一応、付け加えておくが――。現場のすぐ真横にもタクシー会社があり。火災時、彼らの手によって必死の救助活動が行われたという。


 SNSではマスメディアによる無神経な取材や撮影への怒りの声を見た。だが現実は、多数の弔問者による『近所迷惑』の方がよほど酷かったのではないかと思う。もちろん、実際の所は不明だ。


 線路沿いの歩道には、地元の葬儀社の協力によって小さなテントと献花台が設けられ、皆が一人ずつ手を合わせていた。山のように積み上げられた花束とメッセージ。社員と思われる若い男性が、弔問者の一人一人に頭を下げてお礼を述べていた。


 線路沿いの献花台から現場へ向かう。周辺は本当に静かで、小奇麗な新興住宅街だ。その奥の突き当りに、火災に遭った建物があった。


 明るいクリーム色であった建物は窓ガラスが全て割れ散って、窓を中心として外壁が無残にも黒く焼け焦げていた。その時は一階の窓に目隠しのボードも設置されておらず。跡形もなく真っ黒となった内部の様子も少しだけ伺えた。異形にして異様。このような『モノ』は見たことがなかった。


 酷かった。本当に酷かった。こんな、こんな惨いことが現実にあっていいものなのか。なぜ、こんなことにならなければならないのか。言葉を失うとは、きっと今のような状況を言うのだろう。自分は、ただただ変わり果てた建物を前にして、頭を下げるしかできなかった。


 建物の前にも献花台が設置され、線路沿いのものとは比べ物にならない程の数の花が、文字通り山のように供えられていた。もちろんマスコミによる撮影が行われていた。とは言え、マスコミの態度がそこまで酷かったという覚えはない。インタビューする側もされる側も、鎮痛な面持ちで静かに、言葉少なくやり取りを行っていた。


 また、個人によるオンライン配信だろうか。道路や歩道の片隅にうずくまり、ノートパソコンを広げて何かの作業を行っている者も何人か見かけた。


 自分が現場を訪れたのは、結局その時の一度きりだ。それから後の現場の様子を自分は知らない。報道で見かける記事や写真を見聞きするに、先述の目隠しを設置したり、やがて献花台も撤去され、最終的に建物も解体されたそうだ。


 地元町内会からは『私たちはここで生活している』『不特定多数の人々が訪れるようなモニュメントは設置しないで欲しい』『聖地化しないで欲しい』という要望があったそうだ。おそらくこの先も自分が現場を訪れることは、まずないだろう。


 後にみやこめっせで行われた『お別れの会』にも自分は行かなかった。先の現場訪問で、自分の中ではひとつの区切りをつけた、ということにした。


 とは言え、それから当分の間、毎日のように焼け焦げた塔屋を目にしていた。他にも遺体の安置所となった京都府警察学校、負傷者が搬送されたという第一赤十字病院や宇治徳洲会病院……。その傍を通り過ぎる度に複雑な想いが脳裏を掠めていったのは事実だ。今でもそういったことが全くないわけではない。


 十代の頃より、その会社の名前は知っていた。とあるミリタリー・ライトノベルの二度目となるアニメ化の時に名前を聞いたのが初めてだった。以降、数多くの作品で楽しませて頂いた。皆も踊っただろう、あのダンス。軽音楽のアニメ、二期の放送日には第三スタジオ併設ショップ(※当時)を訪れて、アニメーターの方の作業を見た。近年でも、吹奏楽をテーマとしたスピンオフ映画は七度、映画館へと足を運んだ。『何としてでも蘇って欲しい』。少しでも足しになればと思い、決して多くはないが自分も幾ばくかのお金を振り込ませて頂いた。


 この一年あまり、感染症の世界的流行の影響も多少あって、近隣を通ることはほとんどなくなった。今、あの周辺がどのようになっているのか全く分からない。おそらく、外環状は何ら変わることなく、いつものようにいつものごとく酷い渋滞が起こっているのだろう。ただ、あの塔屋だけは見えなくなっているはずだ。



 事件の経緯や影響、是非については何も言わない。自らの記録、そして記憶としてここに記しておく。

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