およそ30万年前。京都盆地を取り囲む無数の断層帯、それらが引き起こす大規模な直下型地震を幾度も幾度も受けて京都の大地は次第に陥没。続いて20万年前、京都盆地を流れる四つの河川によって膨大な砂と土がもたらされる。
こうして30万年に亘る長い長い年月を経て、ひとつの完成を見た京都盆地。そこは山々に囲まれた湿地帯であった。
現出せしは沼と川の大地。やがて原始の京都へ人々の入植が始まった。
※京都市中心部の航空写真。現在は147万人以上を数える京都市も、かつては未開の湿地帯であった。 〜黎明の京都〜
日本人はどこから来たか。以前は氷河期の時代において陸続きとなった際に、ユーラシア大陸から獲物を追ってやって来たと説明されることが多かった。だが最近の学説では、氷河期においては完全に列島と大陸は陸続きにはならず、日本人の祖先たちは船で列島に渡ってきたというのが有力となりつつあるそうだ。
それがいつ頃の話であったのか、正確なことは分かっていない。こればかりは完全なる解が得られることはないであろう。ただ、最新の発掘調査では、2009年に島根県出雲市の砂原で石器が多数発見されており、これは12万5000年前のものだという。これが現時点における日本最古の遺跡だとされている。
砂原遺跡発見まで、日本における旧石器時代は4万年前頃からとされていたが、それが大きく塗り替えられることとなった。当然のことながら今後も更新が予想される。
現在の京都盆地にいつから人が住み始めたのかについても、はっきりとしたことは分かってはいない。京都における旧石器時代の遺跡としては、京都盆地の南部附近である京都市西京区の大枝遺跡や、長岡京市の南栗ヶ塚遺跡などで石器が発見されているのが最古のものである。これらはおよそ1万2000年前のものであると言われている。
さらに時代が進み、土器が発明された縄文時代のものとしては、長岡京市の下海印から1万年前頃の土器が発掘されている。ほか、京都盆地南部の城陽市や木津川市においても、森山遺跡や例幣遺跡で集落跡が発見されている。
稲作が開始された弥生時代のものとしては長岡京市において紀元前である3000年前〜2500年前のものとされる集落跡が雲宮遺跡から発掘されている。この時代の遺跡となると、弥生から古墳時代にかけての遺跡が京都盆地各地で多数発掘されるようになり、その分布を見ると、京都盆地の外縁部に点々と人々が住まい始めたようである。
古代日本の歴史の変遷についてまとめ始めるとあまりに長くなるので割愛するが、3世紀から4世紀頭にかけて奈良盆地に強大な権力を有する集団が発展。奈良の桜井や明日香の地に古代日本の中心地が置かれるようになる。これが後の天皇である大王(おおきみ)を中心とする大和朝廷である。
この時代の京都盆地は「やましろ」と呼ばれおり、5世紀~6世紀頃には「山代」、8世紀には「山背」の漢字が当てられていたという。この名は奈良盆地から見た京都盆地が、奈良と京都の県境ににある平城山(ならやま)の背後に位置する土地であることに由来しているとされている。
この山背の地に土着し、大きな勢力を発展させたのは渡来人の氏族たちであった。
渡来人とは2世紀から7世紀頃にかけて中国大陸や朝鮮半島から古代日本へと移住してきた者たちのことである。稲作や製鉄をはじめ、養蚕に紡織、土木や芸術、学問に仏教など、大陸で発達した数多くの技術や知識を持つ渡来人たちは時の権力者たちに重用されるようになり、その地位と権力を確固たるものとしていった。仏教伝来後、絶大な権力を誇った蘇我馬子も渡来氏族の東漢氏(やまとのあやうじ)を傘下に収めていたという。
現在の京都盆地においても、秦氏、小野氏、八坂氏、土師氏、高麗氏をはじめとした渡来氏族が数多く根を下ろすことになった。今も京都市内のみならず、京都盆地全域にその名に由来する地名を数多く見ることができる。
中でも大きな勢力を誇ったのは現代の京都市右京区太秦(うずまさ)附近に本拠を置いたとされる秦氏(はたうじ、はたし)であろう。秦氏は養蚕や機織り、土木技術に精通していたとされ、太秦という地名は「うずたかく絹が積み重ねられる」という意味であるとも言われている。また、伏見稲荷大社や松尾大社、広隆寺なども秦氏による創建であると伝えられている。
これらから見られるように、湿地帯であった京都盆地の開拓は渡来系氏族によって進められた。大和朝廷の天智天皇もまた、秦氏の力によって山背国の開拓を試みたとされている。だが、実際に山背国が本格的に開拓されるようになるのは、それから150年あまり後の桓武天皇の時代である。
〜そして平安京遷都へ〜
大化の改新がなされたという飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)から数えれば、難波長良豊崎宮(なにわのながらのとよさきのみや)、飛鳥宮(あすかのみや)、近江大津宮(おおみおおつのみや)、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)と、奈良県明日香から大阪府大阪市、そしてまた明日香、滋賀県大津市、さらにまた明日香と都へ移り変わることとなる。
続いて694年には奈良県橿原市と明日香村をまたぐ地域へと遷都が行われ、藤原京が成立する。この藤原京は中国の首都建設に倣い、いわゆる「碁盤の目」の条坊制や四神相応の思想が初めて取り入れられた都であった。
そして710年には現在の奈良市に位置する平城京へと遷都が行われる。その後、山背国相楽郡(現在の京都府木津川市、旧加茂町)の山背恭仁京(やましろくにきょう)や滋賀県信楽市の紫香楽宮(しがらきのみや)、大阪市の難波京(なにわのみや)と短期間の間に首都は転々とするが、最終的には平城京へと都は戻ってくる。
やがて時代は移り、桓武天皇(781年〜806年)の時代。新たな遷都計画が持ち上がることになる。遷都の理由としは、平城京が手狭になった為であるとも、強大となった奈良の寺社勢力によるが政治への干渉から脱却する為であるとも言われている。そんな中で、新たな都として計画されたのは山背国であった。
645年から大化の改新と呼ばれる数十年に及ぶ政治的改革以降、地方行政区分の整理が行われており、現在の京都盆地には「山背国(やましろのくに)」という国が置かれていた。そして山背国は相楽郡、綴喜郡、久世郡、宇治郡、紀伊郡、乙訓郡、葛野郡、愛宕郡の8つの郡に区分されていた。
相楽郡(そうらくぐん、さがなかのこおり)は、当初の山背国の中心的な存在であり、木津川市、精華町、和束町、笠置町、南山城村、井出町の一部が該当する。(現在でも相楽郡を冠するのは精華町、和束町、笠置町、南山城村)
綴喜郡(つづきぐん)は、現在の京田辺市、八幡市の大部分、井出町の大部分、宇治田原町の大部分、城陽市の一部、京都市伏見区の一部であるとされている。(現在でも綴喜郡を冠するのは井出町と宇治田原町)
久世郡(くせぐん)は現在の久御山町、八幡市の一部、宇治田原町の一部、城陽市の大部分、宇治市の一部、京都市伏見区の一部。(現在でも久世郡を冠するのは久御山町のみ)
宇治郡(うじぐん)は宇治市の一部、京都市山科区、京都市伏見区の一部。(現在ではこの名の郡はない)
紀伊郡(きいぐん)は宇治市の一部、京都市伏見区の大部分、東山区の一部、南区の一部。(現在ではこの名の郡はない)
乙訓郡(おとくにぐん)は長岡京市、向日市、大山崎町、京都市伏見区の一部、南区の一部、西京区の一部。(現在でも乙訓郡を冠するのは大山崎町のみ)
葛野郡(かどのぐん)は京都市右京区の大部分、西京区のいちぶ 、南区の一部、下京区の一部、中京区の一部、南区の一部、北区の一部。(現在ではこの名の郡はない)
愛宕郡(おたぎぐん)は左京区の大部分、北区の一部、東山区の一部。(現在ではこの名の郡はない)
であったという。
まだまだ未開の湿地であった山背国。そして桓武天皇が平城京に続く都として選定したのは乙訓郡であった。これがいわゆる長岡京である。
平城京の欠点のひとつに「水」の問題があった。平城京には大きな河川というものが存在せず、用水や水運の面においては大きな不便があった。近隣の大きな河川と言えば、遙か南にある大和川か、北方の平城山を越えてさらに北に位置する山背国の木津川であり、そこからおよそ5km〜8kmの道のりを陸路によって物資を運ばねばならなかった。なお、水の不便や不足という点において、奈良はその欠点を平成の中頃まで引きずることになる。
その点、長岡京はすぐ近くに桂川と宇治川の合流地点があり、それはやがて淀川となって大阪から瀬戸内海へと通じてゆく。まさに平城京の欠点を解消するに打ってつけの地政であった。
こうして784年、長岡京への遷都が行われる。しかし長岡京の遷都・整備事業は極めて難航した。長岡京遷都の翌年である785年9月、長岡京への遷都を提唱し、遷都事業の責任者でもあった藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺される。それに伴う首謀者たちの捕縛と処罰が行われたが、その中には皇太子である早良親王の身柄もあった。
乙訓寺に幽閉された早良親王は無実を主張、絶飲絶食を続けた上で死去してしまう。しかし桓武天皇の怒りは収まらず、早良親王の亡骸を淡路島へ流刑に処したという。
その後、長岡京に数多くの厄災が降りかかる。飢饉と疫病の流行、桓武天皇の生母と皇后の相次ぐ死去、皇太子の病……。これらは陰陽師はの占いによれば「早良天皇の怨霊と、それによる祟り」であるとされた。桓武天皇は早良天皇の怨霊を鎮める儀式を執り行うも、今度は桂川の洪水が頻発する。
793年、治水を担う和気清麻呂の進言もあり、桓武天皇は新たな遷都計画を打ち出さざるを得なくなる。次なる候補地として挙げられたのは山背国の愛宕郡と葛野郡一帯であった。
桓武天皇は和気清麻呂と共に華頂山の頂きへと登り、そこから愛宕と葛野を展望し、そしてこの地に新たな都を造営することを決意したという。
また、桓武天皇は山背国を見下ろす華頂山の山頂に、鎧兜を着せて弓矢と太刀を持った高さ2.5mもの将軍像を埋めさせて、新たな都の鎮護とした。これが現在も残る将軍塚の由緒である。
※東山将軍塚展望台から京都市街を見る。実際の将軍塚は少し北の青蓮院門跡・将軍塚青龍殿境内にある。
かくして794年、新たな遷都が実現する。794年10月22日には桓武天皇が新たな都に入り、11月8日は山背国を山城国と改名する詔が出される。
それによると「この地は山河に囲まれた場所であり、自然と城の形状を取っている為、山城と名を改名する。また、遷都を祝う人々が異口同音に『平安の都』と呼ぶことから平安京と名づけることにする」とのことであった。これが山城国と平安京の開闢である。
※かつての平安京と長岡京の位置関係。平安京のあたりは山背国愛宕郡、葛野郡と呼ばれていた。
平安京は、藤原京や平城京がそうであったように北と東と西の三方を山で囲まれて、南へと平地が広がる地形であり、風水の観点から見ても優れた地相であるとされる。
また、四神相応(しじんそうおう)として北に玄武、南に朱雀、東に青龍、西に白虎の四聖獣を配置した造りであるとも言う。もう少し厳密に言えば、それぞれの聖獣に相応する象徴的地形を有するということになり、それぞれ大岩、湖、大川、大道であるとされる。船岡山、巨椋池、鴨川、山陰道(現在の国道9号線)がこれに該当するとされているが、平安京の四神相応については諸説あるというのが実際の所である。
※平安京の概略図。現代の京都とは大きく趣きを異にする形となっていた。
平安京の規模は南北に約5.4km、東西に4.5kmであり、その中央を貫く朱雀大路(現在の千本通が該当する)の幅は85m。これまでの遷都事業においては最大の広さを有する都となった。
奈良の都と同じく、中国・長安を手本とした平安京は都の北端に天皇の住まう内裏を配し、そこから見て右手(西)を右京、左手(東)を左京と呼んだ。条坊制により、東西に走る39の通りと南北に走る33の通りによって区切られて、ひとつひとつの区画は正方形。いわゆる碁盤の目の形状となっており、そこに十数万人に及ぶ人々が住まったという。
遂に開かれた千年の都・平安京。だが、それは同時に数え切れない波乱と混乱の時代の幕開けでもあった。政争、争乱、疫病、災害……。繰り返される荒廃と炎上、改造と改変。平安京は幾度も幾度も権力者たちに翻弄され、次から次へと実質的支配者は変わってゆく。
無常にして非情なる時の流れに晒される中、理路整然の平安京は原型を留めぬ程にその姿を変えてゆき、いつしか平安の京という言葉すら失われてゆく。
そしてこの地が京都と呼ばれるようになるのは、平安京遷都からおよそ300年が経った頃のことであった。
Comments