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【新・京都風土記】災厄の都市、京都

更新日:2020年9月20日

 西暦794年。桓武天皇によって山背国(やましろのくに)の愛宕郡・葛野郡(おたぎぐん・かどのぐん)へ遷都が行われる。新しい都は平安京と名付けられ、同時に山背国は山城国へと改名された。


 短命に終わった先代の都・長岡京において繰り返されてきた疫病と水害。人々は怨霊の祟りと噂し、嘆き、恐れ慄いた。平安京という名には、今度こそ安らかな都であるようにとの、人々と桓武天皇の祈りと願いが込められていた。


 四神相応。四つの聖なる獣の守護に合致した地相に加えて、数多くの鎮護の寺社が置かれることになった平安京。だが、その祈念も虚しく平安京は幾度も幾度も荒廃と戦災の禍に見舞われることになるーー

※理路整然とした最初期の平安京。だが、その姿が保たれたのはほんのわずかな期間に過ぎなかった。

〜京都と災害の歴史〜


 京都の歴史は、常に自然災害と共にあった。それは京都盆地の成立の歴史と深く関わりがある。京都盆地の周囲には無数の断層帯が所狭しと割拠しており、その断層活動と地震によって大地が陥没してできたのが京都盆地である。つまりそれは京都が重篤な地震多発地帯であることを意味している。


 さらに京都を流れる桂川・鴨川・宇治川、木津川の河川。これらが運んだ堆積物によって形成されたのが京都盆地の土壌なのであるが、それは京都が水害の巣窟であったということである。さらにその地質は沼と小川の入れ混じる湿地帯であり、それらは伝染病の元凶ともなったのである。


 加えて、京都が長く首都であったということは、その覇権を巡って無数の権力争いが繰り広げられたということでもあり、戦災による破壊と焼失もまた数多く経験することとなった。ではここで、平安京遷都(794年)から東京奠都(1869年)までの期間における京都の主な自然災害と人的災害を取り上げてみよう。


797年 南海トラフ地震(?)(800年6月には富士山が噴火)

817年 畿内で暴風雨(摂津大風)

827年 京都で地震 M6.5~7

848年 畿内で暴風雨

858年 京都で大洪水

860年 平安京・畿内で風水害

871年 平安京大洪水

874年 京都で暴風雨、大洪水

887年 京都で地震 M6.5。

     24日後、仁和地震(南海トラフ全域?) M8、五畿七道諸国大震、京都・摂津を中心に死者多数。

918年 京都で暴風雨、洪水

922年 干ばつ

923年 インフルエンザの流行

925年 京都の治安が悪化、道守屋が設置。

930年 清涼殿に落雷(いわゆる菅原道真の祟り)

938年 京都などで地震  M7、死者あり。高野山でも建物損壊。その後も余震が多く、3ヵ月後に大きな余震。

     鴨川が洪水

960年 平安京内裏が初めて全焼

962年 近畿で暴風

966年 桂川が決壊。平安京西南部で大洪水。

973年 北野天満宮が焼失

976年 山城・近江地震  M6.7以上、死者50人以上。

     内裏が火災

982年 内裏が火災

983年 内裏が火災

1000年 鴨川が決壊

1027年 京都万寿4年の大火

1028年 近畿暴風雨。鴨川沿岸が水没

1034年 京都で大暴風。内裏を含めて倒壊多数

1044年 疫病の蔓延。京都の街中が打ち捨てられた遺体で溢れ返る。

1058年 大極殿火災

1096年 永長地震(東海道沖または南海トラフ全域) M8、死者1万人以上。奈良では東大寺の鐘が落下。

1099年 康和地震(承徳地震、南海地震?) M6.4~8.5、

1126年 京都天治2年の大火

1134年 京都で鴨川・桂川が氾濫

1135年 インフルエンザ流行、飢饉も

1138年 京都保延4年の大火

1151年 鴨川洪水

1168年 京都仁安3年の大火

1177年 京都安元3年の大火「太郎焼亡」京都の3分の1が焼失。太極殿はその後、再建されず。

1178年 京都治承2年の大火「次郎焼亡」

1180年 京都で竜巻(治承の辻風)

1180~1182年 養和の大飢饉 京都市中の死者、42300人余り。

1185年 文治地震(元暦大地震) M7.4、死者多数。法勝寺や宇治川の橋などが損壊。余震が2か月ほど続く。

1200年頃 南海トラフ地震(?)

1206年 はしかの流行

1207年 天然痘の流行

1208年 京都承元2年の大火

1218年 京都建保6年の大火

1224年 天然痘の流行

1227年 京都嘉禄3年の大火 大内裏全焼。その後、再建されず

     はしかが大流行

1228年 鴨川が氾濫

1234年 京都天福2年の大火

1237年 京都で大きな火災

1238年 京都の治安悪化。幕府が篝屋を設置。後の交番に。

1245年 京都で震度5以上

1246年 京都寛元4年の大火

1249年 京都建長元年の大火

1268年 京都文永5年の大火

1299年 大阪・京都で震度5以上、南禅寺金堂倒れる。

1317年 京都で地震  M6.5~7。清水寺出火、死者5人。後日、震度6とみられる大地震。

1324年 京都で暴風雨、洪水

1325年 正中地震 M6.5前後

1341年 干ばつ

1355年 南北朝の争い(第六次京都合戦)。京都は廃墟に。

1360年 紀伊・摂津地震(東南海地震?)M7.5~8.0、死者多数。

1361年 正平・康安地震(南海トラフ?) M8~8.5、死者多数。

1368年 干ばつ

1390年 明徳の飢饉

1408年 応永地震 M7~8。紀伊・伊勢で地震。

1420年 応永の大飢饉、全国で干ばつ

1434年 京都永享6年の大火

1449年 山城・大和地震  M5~6.5、死者多数。

1467年~1478年 応仁の乱。京都の大半が焼失

1474年終盤~1475年初頭 京都で大地震

1489年 京都上京、長享3年の大火

1500年 京都明応9年の大火

1510年 摂津・河内地震 M6.5~7.0、死者多数。余震が2か月あまり続く。

1517~1519年 永正の飢饉

1520年 永正地震 M7.0。紀伊・京都で地震。

1539年 近畿地方で洪水が頻発

1540年 近畿地方で大飢饉

1544年 近畿、東海に風水害

1557年 畿内で暴風

1573年 織田信長、京都の上京を焼き討ち

1585年 大阪・京都・伊勢・三河で大震

1586年 天正地震(東海東山道地震、飛騨・美濃・近江地震) M7.8~8.1死者多数。

1596年 慶長伏見地震 M7前後 死者1,000人以上。城郭・寺社仏閣の倒壊多数。余震が翌年春まで続く。

1611年 京都慶長16年の大火

1620年 京都で放火、大火が相次ぐ。

1630年 京都で暴風雨、洪水

1662年 寛文近江・若狭地震(寛文地震) M7、死者数千人。

1670年 近畿で暴風

1671年 紀伊水道沖で地震  M7.3、畿内、山陽道、南海道で強震。

     京都寛文11年の大火

1673年 京都寛文13年の大火

1674年 延宝の第一次飢饉

1676年 洛中で大洪水

     京都延宝3年の大火

1691年 京都元禄3年の大火。京都火消(大名火消)が設置される

1701年 京都で大雷雨

1707年 宝永地震(南海トラフ) M8.4~8.6、死者4900~20000人以上。

1708年 京都宝永5年の大火。内裏をはじめ11000軒あまりが焼失

1713年 京都正徳3年の大火

1730年 京都享保15年の大火「西陣焼け」

1740年 京都・畿内で大水害

1717年 京都をはじめ全国で台風被害

1742年 京都寛保元年の大火

1749年 畿内で風水害

1788年 京都天明の大火「どんぐり焼け」。京都史上最大の火災。市民9割が家屋焼失。

1819年 文政近江地震 M7前後

1830年 京都地震  M6.5前後。死者280人。二条城など損壊。

     地震に続いて京都で暴風雨。土砂災害、鴨川・宇治川の洪水など被害多数。

1837年 天保の大飢饉

1854年 安政東海地震(東海道沖の巨大地震)M8.4、死者2000~3000人。

     32時間後に安政南海地震(南海道沖の巨大地震) M8.4、死者1000~3000人。

     京都嘉永7年の大火「毛虫火事」

1864年 京都禁門の変(蛤御門の変)。(「元治の大火」「どんどん焼け」)

1866年 寅年の大洪水

1868年 戊辰の大洪水

     鳥羽・伏見の戦い

(※地震の死者数は京都に限らない)


 「京都は応仁の乱で大半が焼けた」などとよく述べられるが、それが生易しく思えるほどの災害史である。地震、洪水、疫病、大火と、京都は災害の坩堝だったのである。当然のことながら平安京の歴史もまたそれに左右される所が大きく、大災害が起こる度、頻繁に改元が行われることにもなった。

 当初は条坊制に則り均整の取れた平安京だったが、実際には人々の入植がなかなか進まず、禁じられていたにも関わらず勝手な農地への転用が進められてゆく。また池沼の多かった右京方面ではマラリアをはじめとした感染症が流行。右京は荒廃し、貴族を中心に人々は左京方面へと移り住むようになる。


 平安京遷都から200年が過ぎた頃には右京は道路も住宅もすっかり失われて元の姿を残さなくなり、田園地帯となっていたという。代わりに左京はますます発展し、邸宅はもちろん、新たな大路小路の建設が進んでいった。さらにこの頃、天皇の住居である内裏が初めて全焼(960年)。その後も焼失を繰り返し、天皇は公家の邸宅を借りて住まう(里内裏)ような惨状でもあった。現在も京都に残る京都御所もまた、里内裏のひとつが原点である。


 平安時代から鎌倉時代に移り変わる頃には、もはや平安京はその原型を留めることはなく、平安京という呼び名までもが人々から忘れられつつあった。やがて人々はかつて平安京と呼ばれたそれを単なる「京」「都」と呼ぶほか、古代中国の都になぞらえて「洛陽」「京洛(けいらく)」「京師(けいし)」と呼ぶこともあったという。


 ……そしてこの国の権力者が天皇家から貴族を経て、武家の者へと移り変わる頃。その町は「京都」と呼ばれるようになったのである。

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