京都という街を考えてゆく上では、まずは京都盆地というものに目を向けねばならない。
盆地とは、周囲を山で囲まれている平地のことである。代表的な盆地としては、海なし県である奈良県の奈良盆地や、同じく海を持たない埼玉県の秩父盆地などが挙げられるだろう。
京都府は現在でこそ日本海に面する形となっているが、古くの区分である山城国、丹波国、丹後国として考えた時、現在の京都市の中核となった山城国はやはり海のない盆地であった。そして、この京都盆地の存在と地理的要因こそが「京都」の風土や文化を形成することになったのである。
※周囲を山々で囲まれる京都盆地。京都という街を知る為には、まず京都盆地を理解する必要がある。
~京都盆地の成立~
諸説あるが今から2000万〜5000万年前、ユーラシア大陸の東端の一部が分離を開始。さらにそこから500万〜3000万年もの年月をかけて日本列島が形成されたと言われている。
これらは言うまでもなくプレートテクトニクスに帰因するものであるが、その後も日本列島は幾つものプレートの影響を受け続けており、大陸から独立した陸地が形成された後も日本列島は多くの斥力によって地下地上ともに複雑雑多に引き裂かれる形となっている。その結果として生まれたものが「断層」である。
この断層活動が地震を引き起こす大きな原因となっていることは世間にもよく知られている。そしてこの断層は京都府においても無数に存在しており、それらが引き起こす地震によって京都盆地が形成されたと考えられている。
※京都府下における断層帯の概略図(厳密な位置を示すものではありません)
画像を見れば分かる通り、現在の京都市周辺をぐるりと取り囲むように複数の断層が存在している。今から30万年前以降、これらの断層が引き起こす数千年に一度と言われる直下型地震の影響を何度も何度も受ける中で土地の一部が200m以上も陥没。これが現在の京都盆地となったとされている。
ちなみに京都は地震が少ない土地であると言われているが、それはあくまでも近代においての話に過ぎない。京都盆地を取り囲む断層帯は依然として健在であり、最近では豊臣秀吉の時代、1596年に有馬-高槻断層帯による慶長伏見地震が発生。京都では数多くの寺社仏閣が倒壊し、1000人以上に及ぶ死者を出したと言う。(※2018年6月18日に発生した大阪北部地震は、この有馬-高槻断層帯とは無関係とされている)
また、京都盆地周辺の断層帯の中でも、北陸方面へと伸びる花折断層帯は将来的に極めて大きな地震を引き起こすとされており、この花折断層帯が活動を再開した際には京都市全域が震度6強〜震度7の巨大地震に襲われることになり、破滅的な被害がもたらされると危惧されている。
※京都盆地東部。京都大学の裏手にそびえる吉田山。京都市民憩いの場のひとつである吉田山は、花折断層の南端が隆起してできたものであり、末端膨隆丘と呼ばれる。これ程までに明確な末端膨隆丘は世界的にも珍しいとされている。
さて。数多くの断層と地震の影響を受けて陥没した大地・京都盆地。結果、その周囲を幾つもの山々で囲まれる形となる。
京都はその三方を山で囲まれる盆地であると言う。北の北山、東の東山、西の西山と3つである。やや安直なネーミングと思われるかもしれないが、実際に古くからそう呼ばれている歴史がある。
北山は左大文字山(標高230m)をはじめ、鞍馬山(標高584m)や桟敷ヶ丘(896m)を経て、丹波高地へと続いてゆく険しい山々である。この北山の麓に室町幕府三代将軍・足利義満が建立した北山山荘は金閣寺の通称で知られている。
西山は有名な景勝地である嵐山をはじめ、愛宕山や高雄山に、沓掛山や小倉山など歴史や和歌にも登場することの多い堂々たる峰々を有し、西山連峰と呼ばれる。
東山は北から数えれば延暦寺のある比叡山から始まり、修学院山、一乗寺山、大文字のある如意ヶ嶽、吉田山、円山、清水寺の音羽山、伏見稲荷の稲荷山まで、東山三十六峰とも称されている。
では南はどうなのかと言えば、現在の地理においては京都盆地は南へ南へと伸びてゆき、京都市からは宇治市、久御山町、八幡市、京田辺市、城陽市、井出町、精華町、木津川市などを経て、最終的には京都府と奈良県の県境で平城山(ならやま)と呼ばれる丘陵地帯に行き当たる。ここが京都盆地の終点となる。この平城山は万葉集にも高野原(現在の高の原)と歌われる他、672年の壬申の乱においては戦場ともなった地域である。
とは言えど、過去と現在では京都盆地の様相はかなり異なっており、現在の京都市伏見区と宇治市の境附近には巨椋池(おぐらいけ)と呼ばれる巨大な池があった。この巨椋池は幕末には新撰組が大砲を試射したという逸話なども有していたが、昭和初期の干拓事業で消滅し、今では広大な田園とニュータウンが広がっている。中世においてはこの巨椋池こそが実質的には京都盆地のひとつの終着であり、区切りであったと言えるだろう。
※Wikipediaより戦前の地図。京都盆地に巨椋池が描かれている。
北山・西山・東山に囲まれて南へと広がる盆地、そして巨椋池。これらの地理的条件は風水的にも大変優れているとされ、かの桓武天皇に平安京遷都を決意させる大きな要因となったのは有名な逸話であろう。
また、京都盆地の成立の過程は、京都の文化的発展にも大きな恩恵をもたらした。ぽっかりと陥没した京都盆地、そのそれぞれの末端は急峻な山地、丘陵、坂道となっており、それらが演出するダイナミックな地形と風景を利用して多くの寺社が建てられることになる。その中でも最も有名なのが清水寺である。
※断崖の地形を利用して造られた清水寺本堂「清水の舞台」。このような形の建造物は、古くは奈良の東大寺二月堂や室生寺常燈堂、長谷寺本堂にも見受けられる。
では、実際に平安京が桓武天皇の祈りの通り、何事もなく安泰にして平穏なる歴史を歩んできたかと言うと、残念ながらそうはならず、京都は荒廃と衰退による変貌を幾たびも経験することになる。それはもちろん、数々の歴史的政争や戦乱も大きな要因であるが、そこにも京都における地理や地形が大きく絡んできている。
〜京都盆地の地質〜
ここでポイントとなってくるのは京都盆地の地質と地層である。
細かな場所によって異なってはくるが、まず京都盆地の地下およそ200mには硬い岩盤から成る「基盤岩」と呼ばれる層がある。さらにその上には厚い火山灰の層が積み重なっている。この火山灰は今から60万年〜85万年前、大分県西部にある猪牟田カルデラ(ししむたカルデラ。現在は地下に埋没。直径約8km)の大爆発によって飛来した火山灰によるものである。
火山灰層の上に降り積もるのは大阪層群と呼ばれる海水性や淡水性の粘土と砂から成る氷河期の地層である。大阪層群という名称は、この時代の地層が大阪府内で本格調査されたことから名づけられた。
そして大阪層群の氷河期の時期は1万年前〜200万年前と言われている。この時代、地球全体で氷河化と解氷の時期が繰り返され、日本列島も幾度も極端な陸地化と海洋化を繰り返していた。3万年前頃には日本列島はユーラシア大陸と陸続きとなり、日本海は独立した巨大な湖となって遂には淡水化したとさえ言われている。
そしてそんな時代にあっては京都盆地もまた陸地化と海洋化を繰り返していた。ある時期には瀬戸内海から大阪湾、大阪平野、奈良盆地、京都盆地までもが海に覆われていたという。事実として鞍馬山で貝の化石が発掘されているように、京都盆地はもちろん、その山間部においても貝類や珊瑚の化石が発見されている。そう、原始の京都は海でもあったのだ。
だが、そんな長い長い時代も遂には終わりを告げる。京都盆地を覆っていた海水はようやく引いてゆき、大地が再び太陽の下に現れる時が来た。そして氷河の時代の大阪層群の上に沖積層や洪積層と呼ばれる次なる地層が構築されてゆくことになる。およそ20万年前のことである。
京都盆地に新たな地層を形成したのは京都を流れる四つの河川であった。桂川、鴨川、宇治川、木津川……。これらの河川は淡水性の堆積物を20万年もの年月をかけて京都盆地へもたらして、京都盆地の存在を確たるものとした。こうしてようやく現在に至るまでの京都盆地の地層が完成したのである。
※京都盆地を流れる四つの川は大山崎で合流して淀川となる。また、かつてはこれらの川の合流地点に巨椋池が存在した。
とは言え、その地層とは火山灰と砂と粘土ばかりであり、それも水分を多大に含んだ地質である。結果、京都盆地は湿地という形で現出することになった。
794年の平安遷都。京都盆地への首都移転の時代、京都はまさに湿地帯であった。特に平安京の西側であった右京(現在の京都市右京区。千本通以西エリア)において、当時は沼や細かな河川が数多く残っており、蚊の発生や湿気の多さ、さらに当時の衛生観念の未熟さも加わって伝染病が蔓延したと言う。なお、これらの平安京における伝染病で亡くなった人々の鎮魂を目的として始まったのが京都三大祭りのひとつ祇園祭である。
※祇園祭、宵山で賑わう四条通。もともとは伝染病とそれに伴う鎮魂の祭りとして創始された。2020年はコロナウィルスの影響で宵山・山鉾巡行は中止となった。
こうした疫病の流行により、次第に右京は荒廃。貴族をはじめ、天皇ですらも次第に東へ東へと逃げ出し始め、平安京は左京方面が発展するようになった。原初の平安京のメインストリートは千本通であったのに、現在の京都御所が1.7kmほど東寄りにある烏丸通沿いに位置しているのはこれも遠因となっている。時代にして西暦1300年代半ばの話であり、有名な応仁の乱(1467年)によって京都の大半が焼け野原となるのを待つまでもなく、この頃にはすでに当初の平安京は原型を留めていなかったのだ。
また、京都盆地に湿地を形成することになった四つの河川はいずれも古くから氾濫を幾度も繰り返し、その地に住まう人々を悩ませ続けてきた。
鴨川は、後白河法皇をして「自分の意のままにならぬもの」として僧兵、博打の流行、鴨川の水の三つを挙げたのは有名な話である。近代でも昭和10年(1935年)には大洪水を引き起こし、三条四条を中心として甚大な被害が発生、鴨川に架かる橋の多くも流失した。現在では大規模な浚渫と河川の幅の拡幅工事が行われたものの、今でも大雨や台風の度に氾濫の危険に晒されて続けている。
桂川は、その流域はやはり湿地帯であり、平安京遷都以降も長らく開発が行われて来なかった土地柄である。近年では2013年9月に氾濫を引き起こし、嵐山周辺に浸水の被害が発生した。
宇治川と木津川は、現在では上流に天ケ瀬ダムや高山ダムといった治水施設が完成したことにより、氾濫の危険性は大幅に軽減されているが、元々はどちらも氾濫を繰り返す河川であった。なお、集中豪雨という言葉が使用されたのは昭和28年(1953年)の木津川の氾濫「南山城水害」の時が初めてであったとされている。
もちろん、京都の地質は京都盆地とそこへ住む人々に対して悪影響ばかりを与えてきた訳ではない。京都盆地の地下には京都水盆と呼ばれる極めて巨大な地下水が内包されており、その水量は211億トン。それは日本最大の湖である琵琶湖の水量に匹敵するとも、あるいはその8割近い量を誇るとも言われている。
とは言え、京都盆地の地下に巨大な空洞・空間が存在する訳ではない。京都水盆と呼ばれる膨大な水を含有しているのは、前述の沖積層と洪積層である。これらが京都盆地に豊かな地下水脈を約束したことは言うまでもない。
事実として京都盆地西部にある乙訓郡大山崎町や長岡京市においては、その水道事業の多くを地下水に依存してきた歴史がある。京都市内においても南部の伏見の地は「伏水」と記述される程、良質の地下水に恵まれていたという。大山崎町ではサントリーのウィスキー醸造所が、伏見では月桂冠の酒蔵が造られたのは、やはりこの京都水盆の賜物である。
これらの歴史に見られるように、京都盆地の地質は決して良好とは言えず、むしろ脆弱な土壌である。そしてそういった土地性が京都に大きな弊害と恩恵をもたらしてきたのも事実。
やがて人々は京都盆地の過酷な環境の中、気の遠くなるような年月をかけて独自の文化と風土を揺籃し、醸成し。数え切れない程の衰退と再生を繰り返しながら、千年王城としての京(みやこ)を花開かせてゆくのである――
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